1854 |
安政の東海大地震 |
噴火口内が主体だった地熱地帯が、火口東縁の荒巻(伊豆ヶ嶽・成就ヶ嶽
の間)に移動したきっかけになったという説。 |
1860 |
西欧人の登山 |
ラザフォード・オールコック一行が9月11(旧暦26)日に登頂。ペ
リーの来航から7年にして、西欧人の最初の登山者。当時のイギリス公使。同行のロビンソン大尉が山頂で測量。高度4322m。 |
1860 |
幕府による裁許 |
8合目より上が浅間大社の境内と認められる。 |
1867 |
西欧人女性の登山 |
最初の登頂者はパークス夫人。当時のイギリス公使夫人。 |
1868 |
神仏分離令施行 | 明治改元。外輪山の名称変更や、大日堂(?)の建物が浅間大社奥宮に変
わる。山頂の仏像・仏具類が一掃される。富士講は神道化。 |
1872 |
富士登山女人解禁 |
1832年に、高山たつが女性による最初の登頂を果たしてから40年。 |
1873 |
山頂で高度を測定(その2) |
アメリカ人クラークによる。 |
1875 |
山頂で植物採集 |
ドイツ人植物学者デーニッツによる。 |
1876 |
次郎長の開墾 |
山本長五郎(清水の次郎長)が南麓で開墾を始めるが、水もなく離脱者が 多く頓挫。 |
1880 |
荒巻地熱の記述 |
木野戸勝隆が「富士山頂独(ひとり)案内」を執筆。荒巻における地熱を
最初に記した文献とされる。 |
1880 |
初めての本格的な気象観測 |
東大物理学科のアメリカ人、トマス・メンデンホールが山頂に3日間滞
在。気象をはじめ、各種実験。 |
1887 |
気象観測(その2) |
9月、ドイツ人エルヴィン・クニッピングが中央気象台の正戸豹之助と須 走口頂上で。 |
1889 |
気象観測(その3) |
富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗
が38日間、初めて正式な気象観測を開始。 |
1890 |
ウォルター・ウェストンの登山 |
日本アルプスの父といわれるイギリス人。翌年12月、厳冬期の登山も。 |
1895 |
定期的な夏季気象観測の開始 | 中央気象台が久須志岳で夏季富士山頂気象観測を続ける。 |
1895 |
冬季気象観測の試み |
野中至は山頂剣が峰に観測所用建物を建設し、10月から初の冬季気象観
測を開始。しかし、至、千代子夫人共に病気となり、越冬ならず12月にやむなく下山。 東京地学協会の「地学雑誌」(Journal of Geography)に「寒中の富士登山」掲載。 |
1896 |
野中氏の報文発表 |
「地学雑誌」8〜10月号に、「富士山気象観測報文」を連続執筆。 |
1898 |
ラフカディオ・ハーンの登山 |
小泉八雲(ギリシャ生まれ?の)アメリカ人。 Kité miréba, Sahodo madé nashi, Fuji no Yama! |
1900 |
観測事業の提言 |
野中至が「地学雑誌」5・7月号に「富士観象事業に付て」を執筆。 |
1907 |
気象の論文 |
佐藤順一、気象集誌に論文「日本の高山観測」を発表。 |
1912 |
山頂よりスキーで滑降 |
日本スキーの父といわれるオーストリア人、テオドール・フォン・レルヒ
による、初めての山頂からの滑降。 |
1922 |
伊豆ヶ嶽に噴気 |
関東大震災後にいち早く沼津測候所の技手が登山、石室の大きな被害と新
たな噴気を記録。 |
1926 |
標高3776mに |
最初の測量記録は享保12(1727)年に福田(姓のみ記録あり)氏が
吉原から実施したもので、3895m。 |
1927 |
佐藤小屋完成 |
佐藤が寄付を得て観測小屋「佐藤小屋」を山頂南東縁の東安河原に完成、 気象観測 を開始。観測は昭和6年(1931)まで続いた。 |
1927 |
阿部雲気流研究所設立 |
富士山の山雲を研究する阿部正直が、御殿場市に私設の研究所として開 設。 |
1930 |
富士吉田まで電車開通 |
富士岳麓鉄道(現在の富士急行)が大月〜富士吉田間に鉄道を開業。 |
1932 |
通年観測開始 |
第二極年国際協同観測の一つとして山頂東安河原に「中央気象台臨時気象
観
測所」を設立、通年観測を開始。 |
1934 |
廃止を免れる |
第二極年観測後の観測を三井報恩会の援助で継続。 |
1935 |
予算が認められる |
国会で剣が峰への移築費が認められ、国家予算として山頂の気象観測の経
常費がついた。 |
1935 |
最初のケーブルカー計画 |
元貴族院議員の山崎亀吉による。内務省により却下。昭和35・38年に
も別のケーブルカー計画。 |
1936 |
正式名称がつく |
「中央気象台富士山頂観測所」が正式名称となり、山頂剣が峰に新庁舎を
建設し移転。 |
1937 |
3号庁舎まで完成 |
東安河原の旧庁舎を剣が峰に移設し、3号庁舎とした。 |
1940 |
4号庁舎完成 |
庁舎の南側に増設。 |
1941 |
御殿場基地事務所が開所 |
現在に至る。 |
1944 |
今井一郎が殉職 | 交替登山中に吹雪のため道を失い、4合目付近で殉職。 |
1944 |
山頂空襲 | 12月3日、翌年の7月30日(3名軽傷)、8月13日の3回。 |
1944 |
送電始まる |
逓信院は東安河原の観測所非難所を東京―八丈島間の無線中継所として送
電線を布設。観測所にも分電した。 |
1948 |
三島測候所から分離・独立 |
|
1948 |
富士山登山競争 | 第1回富士山登山競争が開催される。 |
1949 |
名称変更 |
富士山観測所」に改名。 |
1950 |
測候所に昇格 |
「富士山測候所」に。 |
1952 |
天然記念物指定 |
吉田口中ノ茶屋周辺の、レンゲツツジとフジザクラの群落。 |
1957 |
浅間大社が訴訟 |
明治維新で強制的に国有地化されていた8合目より上の、国に対する返還
訴訟。昭和42(1967)年に最高裁で大社側勝訴。 |
1958 |
トンネル掘削開始 |
地下水利用のため、富士綜合開発が大宮口1合付近に全長2017mの横
穴を掘るが水は出ず、昭和36(1961)年に中止。後に東大地震研が利用。 |
1959 |
9月、伊勢湾台風来襲 |
富士山レーダー設置の契機となる。 |
1960 |
ライチョウを放鳥 |
北アルプス白馬岳で捕獲したライチョウを富士宮5合目付近に放つが、昭
和46(1971)年に絶滅を確認。 |
1963 |
レーダー設置決定 |
予算がつき、機器の製作、レーダー塔の建設、庁舎の改装を開始。 |
1964 |
富士スバルライン開通 |
観光登山客の急激な増加をもたらす。 |
1964 |
レーダー工事完成 |
気象レーダー完成。実用化試験局として運用開始。 |
1965 | 正式運用開始 |
レーダーが陸上標定局の正式承認を受ける。東京で式典、10円の記念
切手発行。 |
1966 |
BOAC機墜落 | 羽田発香港行きBOAC機が御殿場口太郎坊に墜落。124名全員死亡。 |
1966 |
2月、表富士周遊道路全面開通 |
|
1967 |
大沢崩れ対策が動き出す |
参院予算委で大沢崩れ下流の土石流の問題が指摘され、国が砂防対策へ動
き出す。 |
1970 |
改築工事開始 | レーダー塔及び電源室である4号庁舎以外すべて取り壊して新築。 |
1972 |
大雪崩事故 |
3月、御殿場口で24名死亡。 |
1973 |
新庁舎完成 |
2号・3号の新庁舎が完成。2階建てのかまぼこ型で、外壁はア
ルミニウム合金製となった。日本で数少ないアルミ建築。 |
1973 |
送電線更新 | 山頂の電力使用量増大に伴うもの。工事完成後、6・6kV高圧送電の火
入れ式挙行。 |
1978 |
レーダー更新 |
デジタル処理を採用、地形エコー除去機能の追加。 |
1978 |
気象テレメータ更新 | |
1980 |
岩屑なだれによる大事故 | 8月14日、久須志岳直下の岩が崩落、吉田大沢で死者12名、負傷者
31名。事故後に下山道のルート変更。 |
1984 |
デジタル化レーダー本運用 |
カラー画像やデジタルデータの伝達など。 |
1987 |
有感地震 | 山頂では稀な有感地震を4回記録。 |
1988 |
最高齢登頂記録 | 五十嵐貞一が103歳で登頂。浅間大社が記録する最高齢記録。 |
1992 |
セスナ機が火口に墜落 |
6月6日、小型セスナ機が山頂火口に墜落。3人全員死亡。 |
1993 |
標高の変更 |
山頂2等3角点の標高が、従来の計測より66cm低いことが判明。 |
1993 |
風穴の汚損 |
天然記念物の風穴内で、フジテレビの番組収録中に発泡スチロールで汚
損。翌年発覚。 |
1997 |
レーダー廃止決定 |
|
1999 |
レーダー廃止 |
平成11年11月1日。前日にスノーボーダーが火口内に滑落、職員によ
り救助。 |
2001 |
三島測候所無人化 |
初冠雪の通報業務廃止。 |
2003 |
無人化の発表 |
平成16年夏季をもって富士山測候所の無人化すると気象庁が発表。 |